フィギュアスケーターの羽生結弦選手が、
25・26日に放送される日本テレビ系恒例番組
『24時間テレビ41』に出演することがわかった。
今年、五輪連覇という66年ぶりの
偉業を成し遂げた羽生選手。
7年前には仙台市で東日本大震災に遭った。
練習のために故郷を離れたものの、
2014年のソチ五輪で金メダルを獲得後
たびたび被災地を訪問し、エールを送ってきた。
羽生結弦(はにゅう ゆづる)
生年月日 : 1994年12月7日
出身地 : 宮城県仙台市泉区
身 長 : 172cm
血液型 : B型
公式サイト :
羽生結弦 『人生を変えてくれた場所』
8月25日(土)26日(日)に放送される「24時間テレビ41」。
羽生選手は「ふるさと仙台のリンクが人生を変えてくれた場所かなと思っています。
このリンクが自分の家の近くになければ、スケートをやることはありませんでしたし、
スケートをやらなかった人生は一番考えられないと思っています。」
とのコメントを寄せています。
引用:24時間テレビ 愛は地球を救うHP
一夜限りの夢のステージでのスケーティングに注目!
羽生結弦 『人生を変えてくれた人』
羽生結弦、姉の存在
まず姉のさやさんがいなければ、羽生結弦選手は
フィギュアスケートをしていなかったかもしれません。
というのも羽生結弦選手より先にまず姉がスケートを始めました。
さかのぼること20年前の1998年長野オリンピック。
仙台市東北高等学校在学中に活躍した日本代表選手が
4人いたことを覚えているだろうか?
田村岳斗・本田武史・荒川静香・荒井万里絵。
この4名を育てた、かつての名コーチで
元フィギュアスケート選手だった
長久保裕(ながくぼひろし)さんが仙台で
フィギュアスケートのブームを巻き起こしたことに端を発する。
その長久保裕さんが所属していたのがコナミスポーツクラブ泉で、
現在の「アイスリンク仙台」なのです。
1999年、羽生結弦選手の姉は、8歳の時にこのリンクで、元フィギュアスケート選手
佐野稔氏が開催したスケート教室に通い始めました。
そして、そのあとを追って4歳で始めたのが羽生結弦選手でした。
2歳の頃から喘息の持病を持っていた羽生結弦選手には、体力をつける意味でも
室内競技のスケートは最適だったのかもしれません。
「天才スケート少年」開花
羽生結弦選手が初めての金メダルを手にしたのは、2004年9歳の時、全日本ノービス(Bクラス)でした。
そして羽生結弦選手の真骨頂といえばジャンプ。
そのルーツであるダブルアクセルの飛び方を教えたのも
姉のさやさんだった。
2006年にはトリノオリンピックで、同じリンクの先輩、
荒川静香さんが日本人初の金メダルを獲得し、
フィギュアスケートに関心が集まる中、
羽生結弦選手も「天才スケート少年」として
テレビで特集が組まれるほどになったのです。
そうなるとどうしても親の期待は「天才スケート少年」である羽生結弦選手に注がれます。
現実問題と姉の想い
御存知の通り、アイススケートにはお金がかかります。
スケート靴代
エッジ代
フィギュアスケート教室代
フィギュアスケートクラブ登録代
衣装代
振り付け・楽曲代
など年間300万円近くかかると言われています。
サラリーマンの平均年収から考えると、経済的負担はかなり大きい。
しかし、天才スケート選手と言われ、将来が嘱望されていた弟の羽生結弦選手。
姉としては自分がアイススケートを辞めることにより、両親の経済的負担を減らせると
判断したのかもしれません。
姉のさやさんは8歳から続けていたアイススケートを辞め、そして大学進学も諦めたのです。
姉としては続けたいという気持ちもあったのではないかと想像できます。
ご両親としても、胸が裂ける想いをされたことでしょう。
ただその姉さやさんの決断のおかげで、
66年ぶりのオリンピック2連覇という偉業を成し遂げた
「羽生結弦」を生み出したのです。
ま と め
・一夜限りのスケートショーが、8月25・26日『24時間テレビ』で放送。
・「アイスリンク仙台」、「姉さやさん」の決断が、
天才スケート少年”羽生結弦”を誕生させた。
支えてくれた姉・家族・地元のファンの想いを胸に、
羽生結弦選手はどんな演技を見せてくれるのか?